昭和45年3月10日   月例祭 【入力者: 末永 満】



こんばんわ。久し振りで壱岐の末永先生のお話を頂きました。もう本当に心が震えるような感動を覚えました。人が助かっていくということは本当に尊い大した(?)(?)(?)。人が助かっていくということはね、やはりやはり末永先生自身が助かっていかなければならない。そのいわば、(?)(?)皆さんお聞きになった通りのお話でございました。中にもう本当に信心をさせて頂く者の一番大切なところをお互い、本気で難儀を直視せよと。自分の感じておるその難儀というものを本当にそれを素直にそれを見極めよと。信心とはそういうものではなかろうかというような言葉で(?)。確かにその通りです。自分というものが本当にこの見極められるという。そこから先生の言葉を借りて言うとです。学校から帰って来た(?)が(?)(?)もうお母さんお米はこれだけかち。というてその一年生のまだその何も分からん子供がですね、親と共にそういうような修行をしているということ。家内がそれに取り組んでおってくれるということ。そのことがです、神様前に出らせて頂く時に家内も子供共々に修行が出来ますということのお礼を申し上げる気持ちが開けて来るという話しておられます。ね。
自分の不外の差。自分の無力さ加減というものをです、思えば思う程神様のおかげにすがらなければおられない。そしてぎりぎり分からせられるところはです、自分自身の内容である。ね。そこから信心はですね、出発してくる。ね。そこから例えば、それはもう難儀ではなく、ね、深い深い神様の御神慮又は御神願によるものであると悟れる時に生まれてくるのが和賀心だと思う。ね。
私は今日、丁度こちらへ、えー、今日はもう夕食致しませんでしたからいつも四時間ばかり長くご奉仕させて頂いた。丁度机の上に金光教報がいわゆるこれは(?)送って来る本部からのお書物なんですけれども。それが送って来ておった。それがちょっとこう開かせて頂いたところに金光(?)布教当時のお話が出ておりました。まだあまり長くなられません。それでもやっぱりもう10年なられるでしょうか。10年でしょうが。まぁ、いうならば、それこそ金光様の今の現金光様の弟ごとしてもうそれこそ隙間の風でも痛う程しのおか、えー、御神徳の中に生を受けられた方なんです。それが荒地布教なさった。そしてその布教当時のことをまぁ、(?)してお話なっておられるのでございます。
丁度末永先生がお話をするところ私が今、感じておったところとこれ一致する。何と素晴らしいことであろうかと。あちらへ布教に出らせて頂いて御本部の月参りだけは欠かすまいと決心された。そしてもし出来ない時にはお金のあるところまで行こうと思ったち。(?)(?)でもいい。ご本部へ近づかせて頂いてそこから拝礼をして帰らせて頂こうという決心をさせて頂きましたが。おかげで以来御本部の月参りだけは欠かすことがなくおかげを頂いておるという話が出てった。
ある時にやはり小学校の一年生が(?)末永先生と同じ。お子さんが学校へお出でなければならない。それにそのお父様が送っていこうと言ったけれどもですね。もう初めて来たその町でどこにねどこにゴミ箱があってどこにどういう家があってあそここう曲がってこ行かなければなら学校には行けないということをです。その前に一遍(?)出られた時に覚えておられた。だからまぁ、親不安なりに後ろから後ろ祈念をさせて頂いてやらせて頂いたら学業を終えれからやっぱり無事に帰って来たというなこと。
奥様があの時にもう何年もしてから御本部建てられる時に頂いて来た大きなお櫃があった。
ところがそれではどうも大きい過ぎるからもう毎日それこそ一円のお金でも(?)と思うからもう一円でも安いお野菜一円でも安いものを買わせて頂かなければならない尊いお下がりを頂くんだからと言うて奥様が心を使われる。ね。
ある時御本部から帰らせて頂いたら家内が(?)お願いをする。お願いがありますかち。何かって。どこどどお店に(?)お櫃出ております。もうあそこの前を通るたんべんにそのお櫃を眺めてはもう祈りに祈りに願いに願ってあれを一つ買わせて頂くと大変助かるがと思うて来ておるのでございますが。あれをお許しを頂いてよかろうかと言うて。そんなにお前が祈りを込めておるだもの。またそれが必要なんだからそれは買わせて頂けと言うてまぁ、買わせて頂いたけれども。そのような家内の後ろ祈念というか思いというものがです、あって初めて今日こうしておかげを頂いておるという意味のことがもうその前面にお話になっておられるそのことを読ませて頂いてもう本当に感動しました。そしたらまた次、引き続いて末永先生がそのお話をされる。私の修行中の言葉でお話になって改めてです、本当に有り難いそして、私が今日お風呂の中で思うたこと。それがまた一致するのでなおさら有り難いと思うた。
まぁ、私いつも一番風呂入らせて頂きます。そしたら家内が丁度お食事の一番準備の忙しいといいですけれども、毎晩必ず私の下着類全部取り替えてもう下着類は風呂場のそこにあるタンスの中に入れてあるからわざわざ着なくても自分でも(?)自分でも取れるんだと。けども家内は必ずそれを替えてすぐ着れる手が通せれるようにしてくれておるのを風呂の中からあのガラスゴシに見せて頂いて、今日初めて私は思うた。本当に神様に対して相済まんと思うた。それはね、家内がどうぞ一日も長生きおかげを頂いてもらわんらんということであった。私もおかげを頂いてね、長生きでおかげを頂かなければまぁ、一日でもよけ御用させてもらわんならんが。家内もどうぞ一日でも長生きのおかげを頂いてくれるようにと思うて、家内がガラスゴシで去って行く姿を拝ませて頂いてからもうどうにもできん感動をえた。
そしてまた、それにこれでもかこれでもかというようにね。金光(?)先生のご修行の時代の話また現在、末永先生が辿っておられるところの信心修行のいうならば、難しさ又は有り難さ尊さというなものを聞かせて頂いてもうどうにもできない感動です。
私はこれも今朝から仕切りに思うたこと。ここへ控えに控えさせて頂いておる30分の間思うたこと。人間は本当に時々静かに静かにね、静かな中に入らなければいけないということである。あまりに世の雑音多い過ぎる。そういう例えば中にあってももう静かにめいもくする一時がなからなければいけない。静かに祈らせて頂く時がなからなければいけない。静かに本気で自分を見極めさせ頂き時がなからなければならないということである。もうそれは朝の3時半というとそれそこ、しーんと致しております。
私は皆さんもご承知のように半分は耳聞こえませんけれどもね。今朝私ふっと気づかせて頂いたんですけれども。ここには小さい時計の音がカチカチカチ聞こえるんです。いつも聞こえおったんでしょうけれど、気づかなかった。ね。昨日はとても聞こえないけれども、その側にある障子を開けた向こうのガラス(?)向こうにあるお手洗いのかけしごしにあ、かけしを伝わって落ちる水の音がもうはっきり聞こえる。
『静かさやかけしを伝わる水の音である』。それがね、昼頃聞こえないのです。それは耳が遠いからかも知りません。もうそれがねもう静まれかえたシンとシンカンとした中にです、その耳が遠い私がです小さい時計が刻む刻む音が聞こえる。ね。かけしを伝うておる落ちておる水の音が聞こえる。聞こえることも有り難いことながらです。こういう静けさをです私共の日々の生活の中にね、一時どうでも必要であるということである。
でないと本当のことが分からない。どうして自分はこんなに難儀をしなければならんだろうかと。自分の無力さ加減もいうならば、家内にでも子供にでも食べさせることすらできない程しの自分というものが情けなくなるだけではなくて、その心が神様へ向けられる時に私もですけれども、家内も子供も一緒にこのような修行をさせて頂いておるということが有り難いとそのことに対してお礼が言えれるということが有り難い。自分の心が静かに底になかなければ。成る程信心とはね、本気でその難儀を直視することなのだ。勿論信心の眼をもって見ることなのだ。そしてそこから分からされるのは自分でありね。同時にね、心行の尊さ神愛の素晴らしさ。このようにして私が育てられるんだというこのようにして助かっていくだいうその本当のことが分からせて頂けれるということ。ね。
静かにならなければいけないでしょう。静かだからこそ時計をその刻む音が聞こえるのであり、ね。水の音が聞こえるのある。丁度お話が10分程長かったからお祭りがどうしても十何分間遅れる。ところが私共はちゃんと用意できておるのに、光橋先生だけがいない。私はこれはもう絶対皆が揃わなければさー、今からということは言わんのです。
その時には私の心の中にですね、一つもイライラが起こってこない。普通ならもうしよるじゃろうかと思うとです。光橋先生はちたらお便所にいっちょる。これはもう緊急な時にお便所でん行ってからちいうところでしょうけれども。これは仕方がない。(?)(?)。けどもこういう切迫した時間がその勿体無いとまぁ、イライラするところでしょうけれども。一つもイライラがない。私はその瞬間自分の心の中にですね、神様こういう時にはイライラした方が本当じゃないでしょうか。こういう時こそは本当にイライラして何しよるなあんたと言うた方が相手のためにもなるとじゃかろうかと私は思うたです。そしたらそのまま心眼にですね、『丁度渡し舟が行って帰って来るところ』と頂くんです。また向こうから何人かの人を船に乗せてまだこちらに(?)(?)まだ着いていない。あれがどうでしょう。イライラした(?)(?)どうしよるか船がはちてからジャブジャブ渡って乗るようなことになる。まだ向こうに下りてもらわんのに乗るから向こうでゴッチャが起こる。神様はちゃんとその次の渡し舟をですよここへもうそこに来よるところに見えてるだもん。それをちょっと静かに待たせて頂いたらどこはどうあるか。ね。
そして向こうが下りてしもうてから静かに乗ったらどうであろう。私共はですねそういうイライラといったような事柄がですどのぐらいおかげを本当のおかげに仕切らんでおるかということ。おかげを例えば頂いたにしてもごっちゃしちゃしてるということ。ね。まだ向こうが下りんせんごつせん時乗るとするんですから。まだ着いてもいないですから。だから足元をいつも濡らしとかなければならんというようなです、結果しか生まれて来ないわけです。さー、そういう時ですね、今日私がもう引き続いて有り難いことから有り難いことを聞かせてもらい読ませて頂いて有り難いその心がです、はー、今日の有り難いのは本当のものだったなと思うのです。
これが普通だったらどうでしょう。どうしよるね光橋先生、いつまでとこう言ったでしょう。もう私の足元を心の足元を濡らさなければならなかったでしょう。ね。本気でね私共が一つ、そこんところの信心をしっかり一つ頂きたい。ね。イライラがあっちゃならんモヤモヤがあっちゃならん。腹立ちはなおさらのこと。
今日、丁度四時の御祈念ちょっと前に久留米の石井かおりさんがお願いに出て参りました。そしていつもあちらその神崎(?)有名なうどんをお供えをするんです。私がかおりさんこのうどんは私大好物なんだけれどね、もうこのうどんはもう昔からあんた家からもう(かれい?)のようにして月並祭たんべんにお供えしよった。この頃もう時々切れる。それなんごつじゃいかんばい。まぁ、つるつるいっちょうおかげを頂くためにうどんのごと。ね。つるつるとおかげを頂くことのためにこれだけお母さんに言うとかんのってもう絶対と思うとかんね。いいやそしたら言うとです。いいや、この前この前もお供えしました。ならほらこの前もこの前もじゃろうが。(?)(?)。そんなことでつるつるにならんって私は。まぁ、それから御祈念の時間になったから御祈念をさせて頂いた。そして御祈念を終わらせて頂いたらまだ一緒に御祈念しておりますから丁度、堀尾さん四、五人集まった。それで私もそこに座ってからまぁ、夕方早う帰らにゃいかないしとったけれども、まぁ、いろいろお話をさせて頂いたんです。
かおりさん一つ本気でおかげを頂かにゃいけんばい。あんたんところのきおしさん、成る程素晴らしい誰も真似できんものをもっておる。だからあんたもやっぱりそういうものをもっておる。まぁ、いうならば、鬼の女房に奇人ということは(?)ものを感じる。ね。ですからそういう本当に強いもの。本当に鬼の女房に奇人と言われるようなおかげを頂くためにはね、今のようなことじゃいかんばい。今のようなことでは力はつかん。折角神様が、ね、石井きよしに、この人、目、娶わせれたということはどういう御神意があるか。あんたもきおしさんに負けんぐらいな信心をしなきゃいけない。
私は忘れるもしないが、あんたが私があんたんところ行った時にね、こんな酒のツノダルの古いのにね、(?)(?)(?)(?)ばかりをものの見事に活けやってあったことがあった。何という素晴らしい花だろうかと思った。周囲の酒屋のツノダルにかーき色にまぁ、また腐った真っ黒茶菓子職の(?)の花がこう入れれたるんです。それは見事です。迎えの表を掃除をしよったら迎えに大きな(?)がったんです。特に道にいっぱい落ちるはわくたんべんに。いうならゴミだ、ゴミ箱いに持っていかなければならないようなものをです、あんたは拾うてきて活きておった。今にも私の頭の中に残っておる程に素晴らしい花が活け上げられる程しのあんたであった。それがあんたこの頃どうか。お花がけいこをせんからとは言うたもんのです、もうあんたの花はもう今度の大祭に入れてくれんのというごとなかぐらいに(?)落ちている。それはしないからだ。もう私もしたいです。もう花はもうそれこそ好き、好きで好きでたまらんのです。けれどもいろんな都合でさー、できんのだと。ね。
この頃からあの去年でした一昨年か。もう死ぬか生きるかという病気をした時にもういよいよもう、もう難しいかと自分でも思うた。皆さんの祈り添えをしっかり頂いて、しとるけれども、今度は難しいかろうと思うた時に長男の隆一君がお見舞えに来た。お母さんはもう今度はもう難しいかもしれん。好きな花もできん(?)(?)と私が言いましたら、(?)先生こういうことを申しました。お母さんそげん寂しいことを言わさんなち。(?)大人なったら絶対もうお花をさせるって。だからあの、元気になってくれと隆一と申したことがありましたが。私はそのように花は好きなんですけれども、やはりけいこをしなかったらもうおしまいなんだ。どんなに素晴らしいてんぐうをもっておってもです、いうならば、私とあんたがようにとる。もう世の掃き溜めしかならないような人間でも、私が本気でそれをなら扱え切るなったらね、いや、素晴らしい例えば真の人になることも出来るだろう立派ないうなら、有り難い勿体無いという人になれれる。そういういうならば、こつわいというものをここで頂いておる。
あんたげんのいわば、きよしさんも同じこと。もうこの人ぐらいそのあの働く人はないという程に努力化である。そして、今申しますようにもうとにかく腹かいたらばからしかと思うとる。イライラしちゃ損だともういわば、損と得のそのことに直結してる。これはもう天地の大法則なんだからね。そこんところをですもう見事にきよしさんは自分のものにしておる。ね。だからあんたがそれに対してですね、それに対してあんたもそのようなものをです、頂いていかないと主人に遅れる。
私は思いますね、もう本当に家庭の中のいわば、勢を揃えたの信心ということぐらい有り難いことはないと思うです。ね。家内が信心になってくれる。主人が信心になってくれる。子供が信心になってくれる。もう何が有り難いというてもこれ程有り難いことはない。例えばどのような中にあってもね、話が信心の話で解決するというようなおかげを頂く程有り難いことはない。
主人が一生懸命に例えば、ある意味での信心を極めて行こうしておるならあんたもその半分欠けておるところのもんをですおかげを頂いていけ。あんたげんきよしさんが信心がない。もう絶対晴れなるおかげを頂くけれども、あれ以上のことはできんだろう。
そしたら(?)さんが言うことです。もう兄弟から悪う言われ、お客さんからはその不平不足を言われる。もうあんた方ご主人ぐらいはもう本当にもう貧乏籤人はいないですよち。行員からは悪く言われる。私は今日初めてそんなことを聞いたんです。きよしさんのその生き方というものは成る程、おかげを頂いていく生き方を、に間違いはないけれどもね、あれだけの努力をしながら人から大して喜ばれてはいないということ。第一お母さんが喜んでないでしょうが。ね。もう大事なかおりさんが自分の好きな花すらも買えでしょうが。ね。
いうならばです、まぁ、信心のまぁ、いうなら何ちうかね。亡者の様な者だと。神は信ずる者を信ずると仰せられるからね、腹を立いたらおかげは頂けんいや、ばからしかと。信じておるところにそこに確かにばからしかごたることではなくてです、やはり、きよしさんの心の中には、はー、おかげでおかげでと思うことが続いていくんだ。けれどもね、あれはね神様を信ずる力が段々強うなっていくから神様は信ずる者を信ずるというおかげを下さるんだけれども。神様から信用されるという信心じゃないとあれ。神様から信用される信心をしなきゃいけません。
そこんところかおりさん、あんたがねそこんところに取り組んで行ったら素晴らしかろう。なぜってあんたがいつだったか。まだ娘時代に化店を開かれる。お市長さんからも大変認められて今度の化店にはあんたが出せ、集金せろということであった。そこで御神縁を頂いたら自然の山から切ってということであった。大橋の山に登らせて頂いてそして、剪定バサミを持ってからいわゆる、山の、(?)の中に立たせて頂いた。そしたらねもう、あの木もこの草も何でも材料になると思うてからどれから先切ってよいじゃ分からんごと思うた。そしたら次にはね、もうガタガタ振るうような感動が沸いて来たちうた。(?)中に立ってからもうとにかくね、何か分からんけれども、感動が沸いたといつかあんたが言うたことがあったろうがと。ね。いうならば、天地の親神様のここの働きの中には例えば雑草一つ小石一つの上でも無駄なものとしては一つとてないのだ。それを氏子がです、はー、あの草も活けられる。あの枝も欲しいなと。活かすことを思うただけで天地は感動しよなさるのじゃ。ね。







この氏子にすがってこれを活かしてもらおうと思うておられるのだ。神様がね。そういう素晴らしいものをあんたは花を通して分からせて頂いておるのであるあるからあなたの周囲の、あなたの今の現在のその中にです、そういう腹を活け上げていくような気持ちのけいこをしなければいけない。ね。
丁度愛子が、お花を入れておったお花がございましたからね、この頃愛子はとても上手になった。もう自分で(?)自分であのように見事に活け上げることが出来るようになった。けいこばい。本当に素晴らしい。この頃の愛子ちゃんのその花の(?)本当にまぁ、いうなら目覚しいという意味のことをかおりさんが一緒にほめてくれるんです。やはりけいこだと。自分の心のいうならば、活かし方。そこんところをね、けいこしなかったら絶対お道の信心の値打ちはない。そのためにね、今朝からも頂きますように無学で人は助からんということはない、と九十九節に教えておられるがね。あれに学問があったらもっと素晴らしいという意味なのだ。無学でも人が助かる(?)けん学問があったらもっと素晴らしい助かりが出来るのだ。
勿論その学問というのはね、まぁ、最近ここん言葉をかって言うなら、和賀心学なのだ。医学があり又は、栄養学があるようにこれからこれからの時代、(?)どうでもこの和賀心学というものが必要になってくるんだ。いかにしたらその和賀心が作られるのか頂けるのか。しかもその和賀心がなからなければ人間人類のすべてがです、ね、幸福にはなれないんだということをです、ギリギリ地球上の人間が段々気づいて来た。それは大変な学問を身に付けた人程大変な技術を身に付けた程しの人程ね。いわゆる、月の世界に人間が立てれるようになったという程しのことが人間のいうなら、知恵、力出来るようになったその先にはです、それが人間が幸せにはなれなかったということを気づかせた時代。さー、この先は心だと。それは心だけではいけない。和賀心でなからなければ、おかげがつながらない。
これが和賀心だと自分で思うておってもおかげがそれに伴わない心であったらそれは和賀心。先程私が申しました、ね、私が有り難い勿体無いといわば、しきりに思わせて頂いておってもしあの私がお祭りが仕えるためにあそこに座った時にもし少しでも私がイライラしておったらもうあなたの有り難いというのはほんなものじゃなかったということになる。そうでしょう。そのようにして自分の有り難き勿体無き恐れ多きというかね、和らぎ賀心と。
教祖様そこんところを和の心とは和らぐ心。賀の心とは祝賀の賀ぞと言うておられる。ね。本当にその祝賀の心こそがです、ね、私共のいわば、おかげは和賀心にあると仰せられるおかげが伴うのだと。だから和賀心を頂くということに焦点をおくという信心こそがです、本当なことであるということになる。ね。
そのためには末永先生が言っておられますように、ギリギリ本気で自分のその難儀というものを直視せよ。難儀を直視するということは、自分自身を本気で極めることなんだ。そしてそこに初めて分からせて頂く自分の無力さ加減というものは分からせて頂いてすがらなければおられない、すがらなければ生きてはいけない私共であるという自覚が出来てきて水一すくい頂かせて頂くでも神様ありがとうございますと言う感動が沸いてくる。ね。壱岐からここまでやらせて頂く来らせて頂くということ。とても自分が来たのじゃない。来らせて頂いたんだ。皆さんでもお参りをさせて頂いたんだ。それをおかげというのだ。おかげを頂きます、おかげを頂きますというが、ね、おかげを頂きましたところにそういうことになってくる。そういう例えば信心からです、まだ布教何年でしょうか。二年かね。三年でしょうが。教会の認可受けさせて頂く。それこそ十年経っても教会内々ちのは布教所が沢山ある中にです、僅かの間に今度教会の認可を出させて頂く程しのところまでおかげを頂いた。
もう一つ有り難いことがある。先生あの、あちらにおかげを頂いております。ここのご信者であるところのまちださん達がどうでしょうか。私共総代におかげを頂いていいでしょうかち。それは有り難かねって野口さんが聞いたら喜ぼうと。と言うて言いたことでしたけれどね。そのように(?)総代なら総代が出来なければ教会認可が出来んのだ。神様がそのようにして予め準備をしてござる。有り難いじゃない。その間に神様が何を分からせられたか。末永勇という人の心の中にいよいよ末永勇の無力さ加減を分からせて下さった。そこにです、私と共に家内が子供が一緒に修行をしてくれるということ。
これが勤めに出ておる時であってとても出来なかったであろうけれども。本気で人の助かることのために自分が精進させて頂こうということになったら子供も家内ももうそれこそ尊い修行にその一族を担うてくれることが出来るということがある。もういよいよ尊い有り難いことになってきた。ね。
私は今日かおりさんに話したことです。一つこれからね学問を身に付けなさい。あんたげんお父さんはもうただ腹けいちゃらばからしか。いらいらしちゃ損すると。いうことを徹底そのことだけを一つ覚えに覚えとるからこれだけ、けれどもこれだけ沢山の信者が合楽におるけれど、それをあんたげんお父さんぐらい思い込んでおるものは本当にまぁ、なかろうと私は思う。けれどもこれだけでは神様を信ずるね、神を信ずる氏子は多いけれどもという多い方の部類しか入らん。神から信じられる氏子が少ないと仰せられるその少ない方の部類をです、かおりさんあんたが極めて行けと。
それにはね、信心の学問を本気で身に付けていかにゃいけんよと。ね。いわゆる、天地の道理であり、いうなら真の理と。御理解九十九節に『真がなからなければ人は助からん』と仰るところを今日は、真のね、いわゆる、真の理と頂いた。真の理を分からなければ人は助からん。私がおかげを頂いてこんな病気が治りました、こげなんおかげを頂きました。さー、あなたもお参りをしなさい。成る程そこまではいいけれども、それだけのことでしょう。けれどもそういうおかげも頂きましたが、こういう理に基づいておかげを頂いたというこの学問がですね、人にいわば、説得力ともならなけ、なれば、又はお導きのいや、本当に合点させてのおかげということになってくるんだと。というて佐田さんのところでお話をさせて頂いた。
昨日お参りをさせた頂いたこの人はもうご主人というのはもう前々の(?)。けども難儀なことが起こって来て子供さんの上に大変な難儀なことが起こって来たもんですから昔の娘時代に参っておったいうなら高塚お地蔵さんにガンをかけて来た。そしてお願いをしとるけれども(?)しくない。はー、何か何かと求めておるところにですもう七八年振りであのご親戚に当たります佐田さんの若奥さんの方がそこへ行かれた時にです、もうとにかくあなたの会いたかったと、お話を聞きたかったと。私の悩みを聞いてくれというて話された。
それに対してこんこんと三時間何と天地のご恩徳説いた。どうしてこげなことが自分今こう自分で説かれただろうかと思うぐらい。勿論神様のおかげを頂いただけれども。日々の信心勉強がそれを語らせたのだ。
それがねおかげを頂いてね娘、娘時代にね大原神社というところからお母さんがねその指輪買うてきて下さったです。それが今でもさされてあった。この人はここに目の右と左。その何かこうでき、こうこう何ちうかね。こう何か(?)できるとあるでしょうが。それが出来ておったから娘時代にはそれは大変苦になってそれが縁談が崩れる元につながった。ところがです、そういう話を頂いたですね、ある日こう顔を洗いよったらですね、その大原神社から買うきておったその指輪でねそれをかけ落としてしもうたち。それでそのままぶらっと前下がったやけん医者に言ったらこの指輪ぐらいでこげなんもん切れるもんかと言われた。その時に思うた。これは例えば大原神社の神様がね、天地金乃神様のご恩徳少し分かったら天地親神様が大原神社を通してこういうおかげを下さったんだと思うたからそれっきり医者に行かなかった。それから(?)(?)昨日参って来た。おかげを頂いてもう片っ方目は美しくなっとっちゃ。本当。そういうおかげを頂いた。ね。
例えばならとにかく佐田さんが言われた。とにかく私を見て下さい私の家庭を見て下さい。もう信心するようになってこの方薬というものあんたがご承知のようにお母さん何かハンドバックの中に見とるぐらいいつも薬入れちゃった。もう毎日薬とりしごさった、誰かがどこがあった。それがぶっつり医者をやめた。そういいやあのやっぱり(?)同じらしいですよ。この頃佐田さんは他所の医者に行きよらせんじゃろうかち医者が心配させおった。行かんもんだから。という程しにおかげを頂いた。合楽では皆さんそうですよ。三年も合楽にお参りをさせて頂いたらもう薬箱はもう本当にお供えしてもらわにゃいけませんよ。又、そういうおかげが頂けれるのが現在の合楽です。
そういうことは皆さんがです、はー、ほんに今日のお話を頂きゃ成る程家ももう薬頂かんごつなってどのぐらいなるだろうかと、思うたら十年も十五年もいや、二十年もお薬をかからずに済んでおるという家庭がいくらもあるでしょうが。驚くばかりです。何時の間にか何とはなしにおかげを受けておるといことが分かる。ね。その時にです、ね、私を見て下さい私の家庭を見て下さいと。そういえばあんたとこのおばあちゃんの(?)私の(?)とこういう。よっぽど前よっぽど悪かったでしょうってそげん言いなさった。変わりなさってこのぐらい。(笑)
というように本当に人間がね(?)変わらせて頂かなければね、私は本当のおかげを頂いておるとは言えない。しかもそういうおかげを見せてしかも信心の学問がこんこんとして三時間に渡って説かれるぐらいなです、私は今日は信心の教養というものを見つけた。いわゆるそれが和賀心学である。合楽での今の焦点であるところの和賀心。
今日は御霊様のお祭りがもういよいよ二十三日が御霊お祭りでしょう。総会十ー、二十ですかね。それで二十のそれと御霊のご案内を今日書いておられる。それで私もってきて、見せて下さったんです。そしたら、『和賀心時代来る』ち書いちゃる(?)。これは(?)(?)(?)。(大笑)だからその和賀心時代来るじゃなくてね、和賀心に突入したんだ。今年という年は。ね。
そのことに目覚めてきた人達があるんだと。ね。第一にその合楽の私がそれに目覚めたんだ。何十年間話して来たことは皆ここにあって今年というても逃されない年なんだ。ね。七十年という年柄はです本当にそういう年柄なのだ。人間が地球上、地球上の総人類がです、求めて求めて止まない幸福とは幸福とはと思うて一生懸命働いた知恵を絞った。大学にもやったけれども、こういう技術も身に付けたけれども、月の世界には行けれるようになったけれども、これでは幸福ではないことが分かった年なんだ。ね。だからこれは千年万年先どうか分からないけれども、ね、これは地球上の総人類にこれがこういう学問を義務として勤め、いわば、つけさせなければならないというような時代が必ず来る。出来る出来んは別として。ね。義務きょう、義務教育なるものなる。それを私共先開けてそれに取り組んでおるということは有り難い。ね。いくら言うてもいくら言うてもそれに取り組まずにおかげばかりに取り組んどる。
今日は丁度、(?)しよったら(?)さんが参って来てから帰った。それから雨がぼちぼち降ってきたやけん傘をさしたち。そして思うたち、はー、これは傘をさしちゃ(?)と思うた。このことは一遍親先生、もう一遍お伺いしようと思うてからここへやってきた。(?)(?)途中ひっくりかえちゃった。あー、素晴らしいと私思ったですねこの人。うん。それでその話を聞かせて頂いて、これはあんたおかげを頂いたねって。人間は上見ちゃできん。足元だけを見てよかと。自分のいわば傘をさしとるその見えるところだけを見たらいい。同時に自分の足元を本気で見極めさせて頂かにゃいけんのだ。ね。
そこから見極めるところに私のような者がということになってくる。ね。いわゆる、末永先生じゃないけれども、ギリギリの自分というものが分かって来る。そこからおかげを受けなければ立ち行かんという私がある。ね。
それから本人が願いとしとる結婚問題恋愛関係といったようなものを私が話した。ね。そして問題はね、自分という者をギリギリ分からせて頂くところから嫁さんでなからにゃいかんのである恋愛でなからにゃいかんのだ。自分というものが分かるというところからね、これではまだもらう資格がないちうごたるというものが出て来る。ね。そかから私は取り組ませて頂く信心。ね。それは例えば、あなたが上が見えんと言いよるけれどもです、そこに自分というものが掘り下げられるということは、実は自分が高められるということなんだということです。
とても今日は、もう(?)帰るのかと私言ったら、まだ家の家族の者が信心がないからね、おばあちゃん達がまだ信心しよござるばってんが。本当のこつが分かちゃないから。分からせて頂けれるまでは、一遍ちょっと帰らにゃ困る、心配なると言うわけなん。けれども又、(?)参って来る見るとそういうおかげも頂いてから又、いわば参って来てございましょうけれどもです。ね。私共がギリギリ自分の足元というものを様々な問題を通して、末永先生で言うなら、難儀を通して自分というものが本気で分かるということ。ね。そこに私はどうでも和賀心学という学問が必要なんだ。
その上におかげを頂くということがきよしさんの一家じゃないけれども。腹立いちゃばからしかイライラしちゃ損するというそのおかげに直結しておる考え方もです。けれどもそれはどこまでも神様から信じられる者ではなくて、神様を信じて行くということだけなんだ。はー、この一本で頂けるなということが分かって来る。益々。本当に、もう人からそれこそばかんごって言わとるち一遍かおりさんが言いましたよ。子供達からまでお父さんばかんごと言われるけん。そういう生き方でいくから。ね。だからあんたはその反対のいわゆる、和賀心学を一つ本気で身に付けてです、主人が出来ないところを私はおぎのうて信心にならせて頂いて神からも信用される氏子。神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと仰る。少ない方の部類にならせてもらわなならん。そこにね私は和賀心を求めての信心があると私は思うのでございます。どうぞ。